昭和54年26歳で結婚、結婚しても数年間は「車大好き!」という生活をしていましたが、子供の成長とともに私も成長し(笑)そして、人並みに「家がほしい」と真剣に考えるようになりました。
ログハウス、カナディアンハウス、切妻片屋根の家など木の家に対する想いのなかでも、古民家に対する想いは特別であり、イメージは、砺波平野の散居村で固まりつつありました。
昭和59年冬、雑誌「ウッディライフ」に、浜 美枝(女優)さんの自宅(箱根)の記事が載っていました。
その家は北陸の古民家複数を解体して移築したもので、掲載写真は、古材が放つわびさびと漆喰壁のいい感じを切りとっていました。
そのなかで彼女は、ティーカップを手に満足の微笑みで「あなたも古民家暮らししなさい」と語りかけているようでした。
ボンドガールを演じた日本を代表する大女優は、日々の癒しを古民家暮らしに求めていた、と思います。
私の古民家探しは、60年の春、富山県の利賀村と八尾町で始まりました。
雪解けの春とはいえこの地域は富山県屈指の豪雪地帯です。春はまだまだ厚く重い雪の下です。すれ違う車もなく、延々と山道を進みゆくとやがて針葉樹と広葉樹の木立を通して家らしきものが見えてきます。
モノクローム風景のなかに、どこまでも控えめな色調の古民家が現れます。立派です。厳冬を耐え抜いた力を感じます。そして言いようのない寂しさも同時に感じます。
いくつもの古民家との出会いを重ね、ひとつの素晴らしい古民家に出会うことができました。
古民家には歴史があります。私が選んだ古民家にも語り継ぐ歴史がありました。
家は昭和18年の新築です。昭和18年といえばまさに戦時下、日本全土が戦勝に突き進んでいた時代です。そんな時代に「家を建てる」などご法度では?・・でも建てられたのです。
昭和61年4月28日解体最後の日、所有者の奥さんは別れを惜しむように話してくださいました。
戦時中でも山奥の事ですから人目を気にせずできたのです。当時は、どこ
でも建築の仕事がなくて、色々な職人さんが住み込みでやってくれました。材
木は周辺の山から出しました。製材所には出さずすべてが職人さんの手作業で
す。
と・・・・。
製材所が遠いから山で木挽きをしたのか?また、戦時下であることをはばかって木挽きとしたのか?定かでありませんが、いづれにしても製材所がある時代に材を挽き削り出したのです。
気が遠くなるような手間の作業が山深い地で延々と行われたのです。そんなところに特別の感慨と価値を覚えました。
ものの価値とは何にあるのでしょうか?私は、手間であると思います。言い換えると技術者がものづくりにかけた時間にこそものの価値が存在するのだと思います。もちろん技術者の技術そのものが優秀であることは言うまでもありません。
また、その技術者が使用する材料が優良であればさらにその価値は高まります。
ややもすると材料を一番に考えがちですが、材料を生かすも殺すも技術者次第ということです。
私たち消費者はものづくりの手間に対して正当な評価をしているでしょうか?手間を正当に評価しないと技術はさびやがて消滅します。
また、技術者は、技術の価値を知らしめることに寡黙ではあってはならないと思います。特に今はそうあるべき時代だと思います。
今、住宅の建設事情は大きく変貌しています。コスト、時間、ニーズ、法律など様々な要件を満たすために施工方法や住宅建材も変化し続けています。
そして、今後も留まることなく変遷の道をたどることでしょう。「最新で最良のものが数年後はそうではないものになっている」このことは、現場の方だけではなく私たちユーザーも感じ得ることだと思います。
それをいいことだとして捉え進んで受け入れるのか、あるいはいいことだとして捉えるができても違うものを選択するのか。昭和60年当時の私は後者でした。そして現在の私の考えもやはり後者なのです。
「3.11以後日本人の価値観は大きく変わった」と言われます。人々の考え方がどのように変わったのか実感はありませんが、ただ、私がまとった脆弱な価値観はより確信的になったような気がします。
二人の言葉を紹介します。
便利、快適、安全な現代社会はひょっとすると同時に人間の「生きる力」を落とす
社会なのかもしれないと、ときどき考えます。
岡田武史(前サッカー日本代表監督)
明治維新から150年、進歩史観も科学絶対主義もすでに飽和点に達しているんじゃないかと思うんですよ。
こうこうたる電気の光で埋め尽くされ、それが豊かさだといった錯覚。
文明の転換点だと言いたい。日本人は自然をおそれ、慈しむ古来の穏やかな自然観に立ち返るべきと思うんです。
中谷 巌(経済学者)